そこへ向かおうと家のドアを開けると、今にも泣きだしそうな陰鬱な天気だった。
間もなくすると、小雨は激しい大雨となった。お洒落を気取った人達が集まる街で、
着飾った人達が、不意の大雨に一張羅を台無しにする様は、どうにも気の毒だった。
道は川のようになり、人気の無くなった大通りをぽつねんと歩いて、店に入った。
開店時間は過ぎていたが、まだリハーサルの最中で、客のいない店内は寂しげだった。
念入りにする打ち合わせは、細やかであり、一方で、神経質にも思われた。
それが、無残な大雨で私しか客がいないとなれば、寂しさも増す一方だ。
やがて開演時間が過ぎ、ぽつりぽつり客が入り始めて、演奏が始まった。
歌詞は、娼婦とのやり取りを描く暗く陰鬱なもので、
絶望的な環境で葛藤する人間模様が描かれている。
恥ずかしげも無く晒す内面。臆面も無く唄う語り口。
「これは、リアリズムだ。Pagode Realismoだ!」と思った。
いつの間にか、会場は人で溢れていた。
「戦争を知らない子供たち」は、無意識下に、
「虚構の中で生まれ、虚構の中で死を迎える。」のを当たり前だと思っている。
衣食住が揃うのは当然で、更なる欲望を満たそうと躍起になる。
それを支える他国には、衣食住すら整わず苦悶葛藤する人がいるというのに。
たまに、虚構を維持するエスカレーターから外れる人が現れる。
大概は苦しい環境に陥った末、現実の何たるかを知るのだ。
でも、現実を幾ら語っても虚構の住人に理解される事はない。
知ってしまった者は、ただただ苦悶葛藤するしかないのだ。
しかし、これが現実なのだ。日本の現状は陽炎のようなものなのだ。
ここで唄われている内容は、普遍的な平成リアリズムの世界なのだと思う。
性風俗のエピソードは、虚構の住民にも理解出来るように細工されているだけだと思う。
すなわち、娼婦とは、日本国憲法に規定された人権を保障されていない不遇な存在だと、
誰もが認める対象だからである。アレクサンドル・デュマ・フィスの「椿姫」を思い出した。